「little phrase #1」no,985
2010年 07月 14日
LANDSCAPE
CD (2009/9/16)
レーベル: NOVEL SOUNDS
曲がために演奏があるのか?演奏がために曲があるのか?
曲があって、演奏があるのか?演奏があって、曲があるのか?
然るに、曲>演奏、曲<演奏、曲=演奏、ロック音楽なるものを表現する音楽家の中の精神において、この比重・バランスはいかなるものか?また、このようなことを考えること自体、無意味なのか?
まぁ、このようなことは音楽を聴く側、聴衆として考えるならば、どちらでも良いのかも知れぬ。
結局、僕が音楽を仲間と共に創作し、演奏するものであるから、このようなことを考えるかも知れぬ。
しかし、little phraseの音源を聴いていると、そのようなアレのアレなことを考えてしまわざるを得ないのであった。
little phraseは、先日共演した山口県のバンドである。ライブでの彼らの演奏は非常に抑揚が効いていて、すぐにマーシャルの3チャンネル、いわゆる「歪み」のチャンネルを未だに使いたがる僕とは違い、非常に音楽家らしい演奏であった。要するに、自分たちの「曲」における自分の「役割・立場」というものを意識したと思われる美しい演奏だったのである。
そして、ただ今は彼らの音源・CDを聴いている。共演者のCDを聴くというのは、遠くの身も知らぬ外国人のCDを聴くことが多い僕のような輩からすれば、なにかと自分と比較して考えてしまうことがあるのである。やはり良い作品を聴くと、競争しているわけではないが、こちらもやる気が掻き立てられるのである。
まぁ、そのようなアレで、彼らの演奏を見て、聴いて、感じたのが冒頭の文章に書いたことである。
まぁ、このようなことは、それぞれの立場によるのかも知れぬ。
同じ「音楽家」といえども、「作曲家」であるのか、「演奏者」であるのか?はたまた「歌手」であるのか?・・・そのどこに精神の比重を置いているのか、この立場の違いによりバランスは変わるのではあるまいか?・・・まいか。
まぁ、とにかく僕の場合は自己主張が強い音楽家であると自覚しているが。
通常、職業音楽家の場合は、「作曲家」だけというのもあるし、「演奏家」「歌手」だけというのも当然のごとくある。しかし、わたくしども自由音楽家においては、自作の曲を自分で演奏するという場合の方が多いであろう。
ちなみに、このような話をする場合の僕の中の勝手な前提条件であるが、純粋に個人の趣味で他人の曲を「コピー」で演奏するという方々は排除して考える。
非常に偏屈な考えと言われるかもしれないが、僕は、コピーバンドは他人の曲を、「金(チケット料金)をもらって」人前で演奏すべきではないと考えているからである。
特にロックミュージックと言われる音楽は!
自己の表現を追求せずにロックなどと語るなかれ!
まぁ、それはいい。話が横道にそれた。
然るに、わたくし自身を振り返ってどうでありましょうや?
わたくし、39歳くるくるめがねは「作曲家」であるのでありましょうか?
以前の僕であれば、ギタァのコード進行を考え、メロディ・歌詞も考え、頭の中の全体のイメージを元にバンドのメンバーにあれやこれやとアレして、曲を創作しておりましたが故、「作曲家」であるかと問われれば、「ある部分においては是でありまする」と言うことになっていたのでありましょうが、「ある部分」と言うのは、自作の曲を自分で演奏するという意味において、「作曲家」というよりも、わたくしは「演奏家」もしくは「歌手」であるということも意識していたという意味であります。
然るに、現在のわたくしは如何なものでありましょうか?
現在のsmockの曲の創作スタイルと言うのは、だいたいの場合において、ギタリストである二人のどちらかのギタァのリフから、ドラムとベースも加わり、各々がイメージを膨らませ、各々の感性に基づいて演奏を作り上げていくのでありまする。たまには、ドラムのリズムから、ベースのラインからということもありまする。まぁ、要するに特段の決まりごとと言うものはありませぬ。
曲の中での「ここをああしよう。アレをああしよう」と言うのは、以前であればわたくしからの発案が多かったのでありますが、現在はそうでもありません。まさに、各人が各人の感性を持って曲を共同で作り上げていく。その意味においては我がsmockには「作曲家」という個人は存在しておらず、「作曲集団」というのが正確な表現であると言えまする。
そして、わたくし個人で言えば、little phraseのように全体のアレを配慮して音を紡ぎだしているかと言われれば、胸をはって「応ぅ!」とは言えぬアレであるなということである。要するに自我が強い、分かりやすく言えば「俺が!俺が!」という部分が39歳の今となってもまだまだあるなと言うことである。まぁ、それが僕の表現であるといえば、そうだとも言えなくもないが。
ああ、little phraseのことにはほとんど触れないで、かような自説を主張する長文を書いてしもうた次第。
ただ、言い換えれば、彼らの音源、ライブはそのようなことを考えさせるほどに、「音楽」に対する真摯な姿勢が見て取れたということでありまする。
by cst6480088
| 2010-07-14 20:35
| 音楽(日本)